都道府県によっては2022年の夏の高校野球地方大会がすでに開催され、各地で熱戦が繰り広げられていますね。
夏の大会は強豪と言われる学校が早々と敗退して姿を消すことも珍しくはなく、一発勝負の厳しさを毎年のように感じさせられます。
そんな中で、『勝って当たり前』と言われるプレッシャーを受けながらも、結果を出し続けるチームが存在するのも事実です。
今年のチームでは、大阪桐蔭高校が秋の神宮、春の選抜と優勝し、春季近畿大会の決勝で智弁和歌山高校に敗れるまで公式戦連勝記録を29に伸ばしました。
今回は、高校野球で印象に残ったチームをピックアップして、公式戦連勝記録を紹介します。
目次
2006年 駒大苫小牧高校 32連勝
2004年・2005年の夏の甲子園大会で連覇を成し遂げた、北海道にある駒大苫小牧高校。
2006年度のチームはエース・田中将大投手を中心に、2005年秋〜2006年夏の間に32連勝の公式戦連勝記録を作りました。
まずは新チーム最初の全国大会である2005年秋の国体で優勝し、翌年の選抜大会でも当たり前のように優勝候補でありました。
しかし3月の卒業式後の夜に、野球部員の卒業生が飲酒等による不祥事を起こします。
現役チームの選手は一切この件に関わっていませんでしたが、事態を重く受け止めた指導者・学校側はチームの選抜大会出場を辞退することにしました。
当時の現役チームの選手は何一つ不祥事を起こしていない中での辞退であり、怒り・慎み・落胆・失望など様々な感情を抱えたのではと思います。
ただ、そのような事態を現役チームは乗り越え、春の北海道大会で優勝しました。
その後、夏の南北海道大会でも優勝し、1年ぶりに聖地へ戻ってきます。
甲子園では田中投手が急性胃腸炎で本調子でないもの、チームは決勝まで勝ち進みました。
決勝戦では斎藤佑樹投手を擁する早稲田実業と対戦し、延長15回の引き分け再試合の末、4-3で敗れて惜しくも準優勝に終わりました。
駒大苫小牧高校は2003年に、甲子園の初戦で8-0でリードしながらも雨天ノーゲームとなり、翌日再試合で破れたことがありました。
その悔しさが2004年の快進撃に繋がり一気に頂点を極め、さらに翌年2005年には57年ぶりの夏の甲子園で連覇を達成します。
その翌年、決勝戦では2006年は夏3連覇のかかった駒大苫小牧と、『ハンカチ王子』と呼ばれて日本中の話題となった斎藤佑樹投手を擁する早稲田実業が対戦し、今なお語り継がれる伝説の試合を繰り広げました。
理不尽とも思えそうな敗戦、それを乗り越えての栄光、球史に残る死闘。
野球は『筋書きのないドラマ』と言われることがあります。
ただ、駒大苫小牧高校のこの4年間は、まるで筋書きがあったのではないかと錯覚させてしまうくらいに濃く、感動的で、今なお多くの高校野球ファンの記憶に色褪せることなく残っています。
2010年 興南高校 22連勝
沖縄県の興南高校はエース・島袋洋奨投手を中心に、2010年春の選抜大会・夏の選手権大会共に優勝し、春夏連覇を成し遂げました。
新チーム発足後の秋季九州大会は、準決勝で宮崎工業に2-3で敗戦しますが、この代の公式戦の敗戦記録は1敗のみです。
選抜、春季九州、夏の選手権全てで優勝し、さらに国体でも1勝しました。
※国体では1勝したのちに天候不良となり、この年は優勝校が決まることなく大会が途中で打ち切られました。
沖縄県は第二次世界大戦で日本が敗れた後、アメリカの占領下に置かれており、沖縄の高校は甲子園に出場することすらできませんでした。
1958年にようやく甲子園出場が許可されたものの、1972年の沖縄返還まではまだアメリカ占領下のまま。
戦後の高校で沖縄県から甲子園出場を果たしたのは、1958年の首里高校が初めてでした。
初戦で福井の敦賀高校に敗れたのですが、この時にある事件がおきます。
今では甲子園の風物詩の一つとなっている、敗戦チームが甲子園の土を集めて持ち帰るシーンがあります。
当時の首里高校も同じように、敗戦後に土を集めて沖縄へ持ち帰ろうとしました。
しかし、アメリカ占領下であった沖縄からみて、兵庫県にある甲子園は外国扱いです。
「植物免疫法」という法律があり、その中の一つに「外国の土を持ち込んではならない」というものがありました。
甲子園の土を持ち帰ることはこの法律に触れてしまうため、当時の首里高校の選手は泣く泣く沖縄の海に甲子園の土を捨てることになります。
ただ、この事件も一つのきっかけに沖縄返還運動が盛り上がり、1972年の沖縄返還へと繋がったと言われています。
なお、沖縄県勢は春の選抜では沖縄尚学高校が2回優勝していますが(1999年と2008年)、夏の選手権大会での優勝は2010年の興南高校のみ。
戦争の時代やアメリカ占領下時代を生き抜いた沖縄県勢の方々が、待ちに待った夏の甲子園での優勝を興南高校が果たしました。
興南高校の選手が春夏連覇を達成し、飛行機で沖縄へ帰る途中の機内放送で機長の方が
『深紅の大優勝旗がただ今この瞬間、初めて本州、九州を離れ、沖縄に向かうため南の海を渡りました』
とアナウンスし、機内は拍手に包まれたそうです。
那覇空港に到着後は3000人の沖縄県民の方に出迎えられて祝福されるなど、いかに沖縄全体が祝福しているかがわかるシーンでもありました。
2012年 大阪桐蔭高校 29連勝
現阪神・藤浪晋太郎投手、現西武・森友哉捕手を中心に、大阪桐蔭高校史上初の春夏連覇を成し遂げたのが、2012年のチームです。
さらに国体では、決勝戦は台風の関係で中止になったものの、宮城・仙台育英高校と両校優勝という形で春・夏・秋の3冠達成という形で締めくくりました。
この代は秋季近畿大会の準々決勝で、奈良の天理高校に4-8で敗れますが、その後は全国大会含む全ての大会で優勝し、公式戦の敗戦はこの1敗のみでした。
2018年 大阪桐蔭高校 27連勝
史上初・2回目の春夏連覇を成し遂げたのが、2018年の大阪桐蔭高校です。
この代は、現ロッテ・藤原恭大選手、現中日・根尾昂選手などプロ入りした4選手を含めたスター軍団のようなチームでした。
2017年秋の明治神宮大会では優勝を逃したものの、翌年は春夏連覇を達成し、国体でも日程により4校優勝という終わり方でしたが、27連勝で高校野球を締めくくりました。
当時の選手は、根尾昂選手の投手転向などで現在でも話題となり、活躍しています。
また、立教大学へ進んだ二塁手の山田健太選手などが今年秋のドラフト候補であり、今後も楽しみな世代でもあります。
1998年 横浜高校 44連勝
プロ野球、メジャーでも活躍し、「平成の怪物」と言われた松坂大輔投手を擁した97年秋〜98年夏(+98年秋の国体)の横浜高校。
この代は、秋の神奈川・関東・明治神宮大会、
春の選抜・神奈川・関東大会、
そして、夏の神奈川と選手権大会、さらには秋の国体全ての大会で優勝し、公式戦無敗で高校野球を締めくくったのです。
横浜高校は1995年秋の大会前、当時のエースだった丹波慎也さんが8月17日に急逝しました。
元・横浜高校硬式野球部監督の渡辺元智さんは、丹波さんを『松坂以上の逸材』と語っています。
その年に中学日本代表のエースとして世界大会で活躍し、翌96年春に期待されて入学したのが、松坂大輔投手でした。
ただ、松坂投手は元々太りやすく、中学引退後にかなり太ってしまったようです。
当時の横浜高校は、のちにプロ入りした小山選手、小池選手、後藤選手など、野手を先に揃えて、『あとはピッチャーさえ来てくれれば、この代は甲子園で勝てる』というメンバー状況で入学した松坂投手ですが、
入学当時の松坂投手の体型を見た上級生などは
『え?今年入ったピッチャーはコイツだけ?』と、不安になったようでした。 笑
松坂投手の1学年上は、現在タレントとして活躍している上地雄輔さんが捕手を務めており、バッテリーも組んでいました。
上地さんいわく、入学当初の松坂投手は『めっちゃ球早いけど、めっちゃコントロール悪いな』という印象だったようです。
松坂投手は2年生の夏に、背番号1をつけて試合でも登板していました。
しかし、準決勝の横浜商業戦で2-1とリードしながら、9回にタームリーヒットをヒットを許した後にワイルドピッチをしてしまい、2-3でサヨナラ負けを喫してしまいます。
この敗戦をきっかけに松坂投手は練習の意識や取り組み方を変え、それがのちの公式戦44連勝無敗という大記録に繋がりました。
ちなみにこの年はプロ野球でも横浜ベイスターズ(現・横浜DeNAベイスターズ)が日本一に輝き、野球は横浜が大いに盛り上がりました。
まとめ
今回紹介したのは、「絶対王者」という印象を残した4校を紹介しました。
ただ、そんな印象がある学校でも、どこかで敗戦することがほとんどです。
その中でも公式戦無敗で高校生活を終えた98年当時の横浜高校は、本当に偉大な記録だと思います。
2022年の高校野球を全国的に見ると、高校三冠の掛かっている大阪桐蔭高校と、春季大会でその大阪桐蔭を倒し、さらに夏連覇の掛かっている智弁和歌山高校の注目度が高いと言えるでしょう。
今年も高校野球から目が離せませんね。